岩瀬忠震/松岡英夫


昨年読んだ同著者による『大久保一翁』と同じく、本作も幕末期を代表する幕府官僚にスポットを当てた評伝。


岩瀬忠震―日本を開国させた外交家 (1981年) (中公新書)岩瀬忠震―日本を開国させた外交家 (1981年) (中公新書)
松岡 英夫

中央公論社 1981-10
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●本文より
岩瀬の開国外交の思想は、良識派の消極的外交思想と根本的に違っている。岩瀬の思想は、国家間の外交官交換と貿易通商は世界の大勢と知り、積極的に先進諸国との貿易を進め、これもって富の蓄積をはかり、新知識・新技術を導入し、富国強兵の実を固めて、世界に雄飛しようとものであった。


諸外国との修好通商条約調印にあたり、最も力を尽くした幕末屈指の外交官・岩瀬の行動力の背景には、当時としては奇跡といってもいい近代的な国家観があった。
にもかかわらず、いまだにマイナーな存在でいるのはなぜか。幕末の真の動乱期を迎える直前に、彼が表舞台を去ったことが理由として大きい。

●本文より
しかし、名門大名の出であろうが、小身の旗本だろうが、頭脳の勝負は別である。だから、政治家としては、官僚の頭脳・能力を評価し、これを十分に発揮させることに努めなければならない。ところが井伊大老は、これをやらずに、ただ「排除」にこれ努めた。もちろん、その有能な官僚たちが、ひとしく一橋派という敵側陣営に属していたという、当時の運命的な事情は考慮しなければならない。


超保守派の井伊直弼は、英明さより血筋を重んじ、将軍後継は紀伊の慶福(家茂)こそ相応しいという立場から、大老就任後は、慶喜擁立を図った一橋派を徹底して粛正する。いわゆる「安政の大獄」で、官僚のうちでは岩瀬忠震が最も井伊に目の仇にされた。
外国奉行から作事奉行に左遷させられ、しまいには蟄居を命じられた岩瀬は、お役御免から2年後に世を去る。享年44とまだ若い。憤死だったとされる由縁である。

徳川が倒れたのは、幕臣に人がいなかったからではない。システムの硬直にその因を見出すべきだろう。優秀な人材は、優秀であるがゆえに、旧弊な思想の中では"頭のおかしな奴"と見なされ持て余し者にされてしまう。

岩瀬の失脚によって、日米修好通商条約調印のために渡米する役割は、これも幕末のキイパーソンである小栗上野介に回ってきた。これに咸臨丸で随行したのが、勝海舟である。


読了:2011/3/2
採点:☆☆☆


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[ 2011/03/06 11:48 ] | TB(0) | CM(0)
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